懐かしい写真

 いよいよ当地もオートバイの季節となってきました。この冬は、今迄にない位いに雪は少なかったのですが、今月(3月)に入ってから、駄目押しが続くのかのごとく雪が降りました。ただ、今の時期の雪は、朝20cm位い積っていても、日中天気が良ければ夕方には殆んど消えていますし、道路も乾きます。

 長男が時間を取れる様になったので、粒麗荘のホームページのアルバムの写真を過去に遡り、全部を復活しました。又、一昨年と昨年のアルバムも出来ました。懐かしい御自身や、懐かしい方々を御覧になって下さい。

ーここからおやじ便りー

 19年も昔(?)からの写真を見てみると、大勢の人達との出会いがあったのに改めて驚かされる。仲の良かった常連さんで、亡くなられた方も何人もいらっしゃる。「年だから、バイクを降りる」と、わざわざ連絡をくれた人も何人かいた。それこそ大昔に初めて出会い、今でも来てくれている人も何人もいる。又、久しく会っていない人も大勢いる。

 年のせいか(嫌いな言葉だが)、物覚えが悪くなったのだろう、久々に会い、相手の方は「御無沙汰です」と親し気に話しかけてくれているのに「誰だっけなぁ〜」、しばらく一緒に飲んでいるうちに「あーっ!3年前の彼かぁー」と•••、最近はままある。この様な宿をやっていると、お客さんとは一緒に飲んだりして距離が近くなる、気の合う人とは互いに昔からの友みたいな感じになる。又、何十年振りかで再会 ー 宿をやっているので来てくれたと思う ー して、以前より仲が良くなったりした友もいる。

 昨年の11月に「もう、バイクを降りるので最後の遠出に、上村、お前の所に来た」と、中学時代からの友人がやって来た。やつとは2006年に40年振りに再会してから、中学時代より仲良くなった。たまたま同じウィスキーが好みで、音楽、読書の趣味も似ていた。やつと飲んでいる時は、居酒屋や小料理屋ではなく、落ち着いたBarで飲んでいる様な感じで楽しかった。先日、よく一緒に来ていた彼の奥さんから「上村さん、主人が亡くなった」との電話があった。楽しみを一つ失ってしまった。

 それこそ後何年、こんな宿を続けられているかは分からないけれど、わざわざうちに来られたお客さん達とは、一緒に飲む酒は楽しく飲みたいと思う。

 

P.S. アルバムの写真は基本的に私が選んでおり、又、そこのコメントは私が書き、長男に載せてもらっております。

粒麗荘も後何年・・・

 年明け早々に大変な事が起こりました。国内だけではなく、海外でも異常気象や戦争など色々な悲劇が続いており、これでアメリカの大統領にあのオッサンがなってしまったら・・・、心から楽しんで過ごすと云う事が出来づらい今日この頃です。若い頃から酒を飲んだ時は、政治と宗教の話はしないと言ってきた私ですが、最近は更にそう云う思いが強くなりました、でないと酒がまずい。

 しかし、今年も粒麗荘に来て頂いたお客さん達とは、夢の抱ける明日を期待しつつ、楽しく酒を酌み交わしたいと思っております。

ーここからおやじ便りー

 今年の5月で越して来て19年目となる。当時はまだ53才であった、この秋にはもう73才になる。

 昨年、思いもかけず旧友からハーレーを譲り受け、改めてバイクに目覚めさせられた私だが、案の定、近所の坂道で左折しようと一時停止をした時に立ちゴケをしてしまった。バイクは無事であったが、泳いで体力維持に努めているのだが、やはり年なのだろう、起こすのに時間がかかり、多量のオイルが漏れ、それが路面に跡となり、何ヶ月も残ってしまった。毎日必ず通る道なので、その黒く残った跡(まるで人身事故のあった様な)を見る度にヒンヤリしていた。

 外で景色を見ながら酒を飲んでいて、後、何年バイクに乗れるのだろう、何年米を作っていられるのか、後、何年この景色の中に居られるんだろうなどと、ふっと思う事がある。

 

 昨年、なじみのお客さんお二人の訃報が届いた。

 お一人はN村さん。最初に来られたのは2009年、御夫婦それぞれのバイクで来られた。年に2、3回利用して頂いた。最後に来られたのは一昨年の秋、亡くなられたのは昨年の春。静かな人だった。

 もう一人の方は、私が東京でお世話になったバイク店のオーナーU田さん。2010年から御家族やお仲間の方々と年に2、3回来て頂いていた。ドローンでうちを撮影してくれ、それをネットで紹介をしてもらったりもした。うちで唯一団体貸し切りをさせて頂いたグループの長。静かな力を感じられる方だった。

 お二人共私より若かった。20年近く宿をやっていると常連さんで亡くなられた方が何人かいる。

 開業以来のお客さんで2013年に亡くなられたY羽さん。

 2007年から7年間来られていた、通称Gタさんはバイク雑誌に旅の寄稿をしていた。

 やはり初期の頃から来られていたI本さん。年に5、6回は来られていた。逆輸入車の大型アメリカンを軽々と扱っていた。亡くなったのは2014年。その前年は毎月来られていた。

 2010年から2016年の間、年に10回以上は来られていたY田カエル先生。それこそ週末になるとうちにいるという感じであった。やはり若い頃からバイクに乗っていて、その知識はハンパではなかった。

 皆さん、泉下においてもバイクに乗り、酒を楽しんでいらっしゃる事でしょう。そのうち私もお仲間に入れて下さい。

 

“酒の一杯は健康のため、二杯は快楽のため、三杯は放縦のため、四杯は狂気のため(紀元前6世紀・スキタイの哲学者アナカルシス)” 一緒に五杯目行きますかぁ!

以上新年の御挨拶

古希を過ぎてハーレー乗りに••• 〜後編〜

〜前編の続き〜

 マフラーを探してくれると言ってくれた常連さんは、御自身も前からハーレーに乗っていて、現在も“エレクトラグライド”に乗っている。その彼から先日「上村さんの好みに合いそうなマフラーが見付かった」と嬉しそうに連絡があり、すぐに来てくれた。マフラーを交換する作業も、メカに弱い私にでも理解出来る様に行ってくれた。そして、その交換したマフラーの音は「えっ!!え〜!えー」であった。

 目の前の田や畑、周囲の山々、色々な心安まる景色の中にうもれて生活していると、車もバイクも日常の移動の足であり、大型バイクでも特別なものではなかった。

 だが、ハーレーに乗らせてもらうことになり、久しく忘れていたバイクに乗る緊張感、そして喜びを本当に久々に感じる事が出来た。ようやく、私もこの年になってバイク乗りの一員になれたのかな•••、そして後何年乗っていられるのか•••?

 

P.S. 今迄乗っていたバイクは、東京の次男が乗ってくれる事になり、彼は今大型の免許取得に行っている。

古希を過ぎてハーレー乗りに••• 〜前編〜

 本当に久々のおやじ便りとなりました。何かと皆様には御心配を頂きましたが、現在営業は普通にやっております。只、お仲間、家族の方以外との相部屋は止め、一日4組迄とさせて頂いております。それで満員でも少ない日は4名、多くても10名ですが、この春の連休中では満員の日でも多くて7名でした。

 この様なちっぽけなライダーハウスですが、後何年かはやってゆきたいと思っております。誠に申し訳ありませんが、7月から宿泊費を500円値上げさせて頂きます。

 

ーここからおやじ便りー

 古希を過ぎ、この秋には72才になる。還暦の時にはしみじみと「60才になったんだなぁ」と、思いもひとしおだったが、古希の時は「よく、まぁ、70才迄生きてこれたなぁ、後何年生きるんだろう•••」程度の感想しかなかった。日々の生活も変わりはなく ー  週に何日かプールへ行き、農作業、木を切りに行き薪作り、お客さんと酒を飲み、冬は雪をかまう、そして毎日夕方には、庭で猫達を侍らせ、好きなウィスキーを飲む  ー と、まぁ、おかげさまで体だけはなんとか動いている。

 ライダーハウスのおやじなんぞをやっていると、バイクにはうるさく、メカには強いと思われがちだが、私はメカには弱く、バイクは殆ど興味はない。バイクの旅が好きでライダーハウスを始めただけなのだ。その旅も妻を後ろに乗せて行き、一人での旅はめったにない。タンデムなので、バイクは足着きが良いアメリカンにしか乗っていない。今迄2台乗ったが、国産のバイクだ。バイクには興味のない私だが、いつかハーレーには乗りたいなぁと思っていた。しかし70才も過ぎ、後何年バイクに乗れるかどころか、後何年生きていられるか分からない、しかも金もない老人がハーレーなんて言ってはいられない。

 そんな実情を察してか、私の50年来の友人で、先輩でもある“越後屋さん”が先日、札幌に住む彼のお兄さんが年齢を感じ降りたハーレーを引き取りに行き、我が家迄乗って来て「上村、お前これに乗れや」と言い、そのハーレーを私にくれた。それは1994年モデルのダイナワイドクライドで、1340CC、海外で主に仕事をしていたお兄さんは日本に帰った時しか乗っていなく、約30年前のバイクだが走行距離も2万Km程で、車体もピッカピカ。先日、うちに来た常連さんがそれを見て「上村さんにはもったいない、高く売れるから、売っちゃいなさい!」と言われた。まぁ、たしかに私には分不相応かもしれないが、「エッ!ぇー」であった。又、他の常連さんはノーマルのマフラーの音を聞いて「もっとハーレーらしい音の出るマフラーを探してくる」と言ってくれた。「えっ!ぇ〜ぇ」であった。

 

〜ここ迄で息子の仕事の都合で前編終了〜

年賀状

 久々のおやじ便りです。

 昨年の年賀状に書きましたが、私も古希を迎え、ハッキリ言って楽をしたく思い、今年から年賀状をお出しするのを失礼させて頂く事にしました。しかし、何名かの方々からはご丁寧な年賀状を頂いております。ありがとうございます。後日、“寒中お見舞い”で返事をさせて頂きます。その年賀状で、チョットした事件(故?)がありました。
 正月の3日の日に、朝から除雪機を動かしていた時、郵便屋さんが配達に来られ、私は年賀状の束を直接受け取り、カッパのポケットに仕舞いました。
 翌々日の5日、年末から気になっていた母屋の2m近い雪を登って下ろしました。その硬くなった雪を除雪機で飛ばしていた時、地面に年賀状の破片が散乱しているのに気づきました。それは3日の日に郵便屋さんから受け取り、忘れていてそのままカッパのポケットから落ちた年賀状の残骸でした。
 集めた少しの破片から、3名の方はなんとか名前は判読出来ましたが、その他の方々のは雪と一緒に機械に砕かれて分かりません。3日の日に届く年賀状は、だいたい元旦に出された年賀状だと思われます。お心あたりのある方、誠に申し訳ありません。
 辛うじて判読出来たのは、


  ○大阪の竹川さん
  ○東京都あきる野市の橋本さん
  ○書体と文面から、世田谷の松中の元クラスメート朝倉さん


 ではないかと思われます。他に送って下さった方々、誠に申し訳ありません。

2022年1月11日  粒麗荘・おやじ

ツマミの王者

 残念ながら未だに営業を自粛をしております。うちでは“ソーシャル・ディスタンス”とやらを厳密に出来そうもないし、それをやる気もないからです。

 常連の方々からは心配をして電話を頂いたり、近く迄来たからと寄って頂いたり、先日は、福井の「べこ亭」のオーナー夫妻は友人と一緒に、わざわざ日帰りで訪ねてくれました。それこそ皆さん“粒麗荘”は“潰れそう”なのではないかと気に掛けてくださっている様で、有難い事です。

 皆とワイワイと楽しくお酒を飲める様な世相になりましたら、すぐに営業を再開させて頂きます。

 

—ここからおやじ便り—

 営業をしていないせいもあり、時間が取れるので、農作業の合間に、週に3、4回スポーツ・ジムへ行き泳いでいる。バイクで往復1時間半程かけ、プールを10往復し(500m)30分弱泳ぐ、もっと長く泳ぎたいのだが、若い頃からの重厚喫煙の所為か、タバコを止めて10年近く経っても、泳いでいてすぐに息が上がってしまう。タバコだけではなく、年の所為でもあるだろう。

 もうすぐ69歳になる、一年もすると古希である。還暦を過ぎた頃は白髪が目立つ様になった。最近は大分髪が薄くなって来た。白だろうが、赤だろうが、何色であろうと髪にはもう暫く残っていて欲しいものだ。

 「老齢を堪え難くするものは、精神や肉体の衰えではない、想い出の重荷である」S・モーム。20年程前の映画で、デヴィッド・リンチ監督の「ストレイト・ストーリー」と云う好きな作品がある。73歳の爺ちゃんが、時速8kmのトラクターを運転し、喧嘩別れした兄に会いに行くと云うロード・ムービィ。旅の途中のキャンプ場で、主人公が若い人達に「年を取ってつらい事は」と聞かれ、「年を取っても、若い頃の事を忘れない事だ」と答えるシーンがある。自分が年を取った今、たしかに若い頃の楽しかった事、頑張った事(あまりないが)、胸をときめかせた事(これはよくあった)はよく覚えているし、同じ体験はもう出来ない事も分かっている。多少淋しい面もあるが、昔も今も好き勝手に生きているので、特につらいと迄にはいかない。

 

 稲刈りも終わり、稲を“天日干し”している。毎年手伝いに来てくれていた“協力助っ人”の“援農隊”のメンメンも“コロナ騒動”で来れず、田植えや稲刈りも殆んど一人でやった。今年は7月の長雨、8月の猛暑で農作物には色々と影響があった。うちだけではなく、周辺のお宅の稲も収穫前にベターと倒れてしまった。これをいちいち手で起しながら刈るので、いつもの3倍以上の時間が掛かった。又、スイカとトウモロコシの出来も良くなかった。苺もいつもなら1ヵ月程はイヤと云う程食せたが、今年は2週間程で終わった。葡萄(巨峰)は実が成り出してから袋をかけ、収穫を楽しみにしていたが、何者かに(ハクビシンかも)袋を破られ、殆んど食べられてしまった。苺も巨峰も酒(ウィスキー)のツマミとして好きなので、規格外の物を安く買って食している。自分で作って収穫出来ても規格外なので、手間を考えると買った方が安いのだが、自分で作った物をサカナに一杯やると云うのがやりたいのだ。

 ツマミと云えば、これからは“牡蠣フライ”、揚げたてを3個程頂戴し、2個はウスター・ソースで、1個はタルタル・ソースで、黒ビールも良いが、やはり、濃い目のハイボールが一番。年中食べられるツマミでは“焼売/シューマイ”、温かいやつを3、4個、ビールにも合うが、ウィスキーにも合う。偶然にも私と同じ銘柄のウィスキーを愛飲している女性ライダーさん、今は2児の母となり、家族で年に数回遊びに来てくれるが、彼女が横浜の有名な“焼売”を持って来てくれた。それ迄は“シューマイ”はスーパーで1箱100円程の物をたまに買って食していたが、別段感動はしなかった(これ位で感動していられれば安上がりなのだが)。しかし、あの有名な“焼売”を食した途端、昔の“焼売”の味が蘇った。最近では妻も時々、“焼売”を作ってくれる。私にとって“牡蠣フライ”がツマミの海の王者なら、陸の王者は“焼売”ではないかと思われるが、いかがなものか・・・。

 

—終わりに—

 秋に収穫した米を「新米」と呼べるのは年内中で、年が明けると「新米」とは言いません。嬉しい事にうちの「新米」を毎年楽しみにしてくれているお客さんが何人かいらっしゃいます。今年はいつにも増して苦労をして米を作りました。「新米」を食べてもらえないのは非常に残念です。

 

2020年10月15日 粒麗荘・おやじ

ウィリー

ー始めにー

 まだ営業は再開しておりません。1ヶ月程前には7月の連休あたりからと予定をしていたのですが、最近の感染の拡大もありますがGo Toキャンペーンとやらの騒動で、予約をしてくださった方々全員にキャンセルをして頂きました。今の所、お盆の予約も受けておりません。

 毎年8月17日に行われる地元の夏祭りも中止となりました。近所の人達も、都会で生活している子供や孫達には当分の間会えないと諦めています。八王子にいる私共の孫娘は8月17日が誕生日で、我が家の目の前で上がる花火を楽しみにしていましたが、今年は遊びに来ない事になりました。

 

ーここからおやじ便りー

 3月21日のお客さんが最後で、以来、予約は全て断っている。一時、世の中が落ち着きだしたので、人数を減らして営業再開をしようと思った。母屋の風通しを良くする為、宿泊部屋を3部屋にし、一部屋1組(1人〜2人)、満員になっても3〜6人でやる予定だった。消毒用アルコールは用意したが、フェイスマスをする気はないし、うちは皆でワイワイやりながら飲み食いするので、ソーシャルディスタンスとやらも無理である。食事の時、席を離し気味にし、多少静かに話をするようにしてもらっても、刑務所の面会みたいな間仕切りなんぞは用意する気はない。こんな状態で営業を再開するのに、気心の知れた常連さん達からの7月の連休の予約を受けた。しかし、感染者数が増えだし、しかも余計な事にGo Toキャンペーンで、あーだ、こーだとゴタゴタし、全国の老若男女に、都会に行くとコロナに罹る、都会の人はコロナを持ってくると思わせてしまった。観光地までも、ここの人は来ても良いが、ここの人は遠慮してくれなどと言い出す始末。こんな状態では、来ても楽しめないどころか嫌な思いをするかもしれない、ギリギリになって中止をしてもらった。ゴールウィークとお盆が駄目で、この先紅葉シーズンもどうなるかは分からない。

 “給付金”の事では周りの人達が色々とアドバイスをしてくれた。野沢で家が民宿をやっている知人、デザイン会社などを経営している常連さん、個人で仕事をしている友人、デザイナーの我が弟。私がパソコンを苦手にしていて、新聞もとっていず、今だにガラケーを使ってる世事に疎い爺いだと思われ心配をしてくれたのだ。お陰で今の所月々の支払いは滞ってはいない。

 他にも鬱陶しいのが、先月からずっと続いている雨/曇りの天気。この一月間布団を干せたのは一回だけだった。この春に新しく作った庭のテーブルやイスも誰も利用しないうちに黴が生えてしまった。うちは椎茸は栽培しているが、他の茸は作っていないのに色々と出ている。中にはキクラゲなんかの食せるだろうと思われるものもあるが、ちょっと遠慮している。こんな天気でも相変わらず夕方になると、猫達を侍らせ、好きな音楽を聞きながら庭で酒を飲んでいる。そんな時の最近の楽しみだが、目の前の家(と云っても200m程離れているが)の息子さん達の自転車の妙技だ。お兄ちゃんは高校生、弟は中学生、学校から帰って来ると近所の友人達と自転車で遊ぶ(と云うより競技に近い)。色々なテクニックを使うのだが、中でも凄いのが、何十メートルとウィリーで走り抜ける。勝手に遠くから眺めてエールを送っているので、近くで見た事はないが、自転車もそれなりの物なのだろう。先日、ローリング・ストーンズを聞きながら飲んでいたら、ウィリーが始まった、これがなんと曲にピッタリと合ってカッコ良かった。まさに“イェ〜イ”であった。

 

ー終わりにー

 先が見えない状態ではありますが、うちがうちらしい形で営業が出来る様になりましたら、営業を再開致します。その時は庭で酒を飲みながら、遠くから皆で一緒にウィリー小僧達にエールを送りましょう“イェ〜イ”と。